こんなリーダーになりたい!


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毎度!

お客さんが育てている野菜を貰ったんですが、無農薬だからか中から虫が出てきて腰を抜かしそうになったかっつんです。

新鮮な野菜は虫も美味しいと分ってるんですね。しかし、急に出てくるとビックリしちゃいます。大人になる度に虫が苦手になっているのを感じます・・・(;´Д`)

今回は、この人って理想のリーダーやないか! と映画を観て感じたので、感動をシェアしたいと思います。え?おっさんの感動話はいらない?

まぁ、そう言わずに読んでみてくださいな。

目次

ミスターVHS

あなたは「高野 鎮雄」という人物をご存じですか?

若い方は知らないかも知れませんが、DVDやブルーレイが出てくるまではビデオというモノで映画などを観ていました。録画もHDではなくビデオテープに録るのが一般的だったんですよね。

そして、ビデオの世界標準がVHSという規格だったんです。「高野 鎮雄」さんはVHSを開発し、世界標準規格に押し上げた功労者であり、「ミスターVHS」と呼ばれていました。

今から40数年前の1970年半ば、当時業界8位だった日本ビクター。ビクターのVTR事業部長だった高野さんは、「世界のソニー」を相手に絶対的不利と言われたビデオの規格争いに勝利します。

しかも、勝利しただけではなく、ビデオ事業としては初の日本の会社が開発した規格が世界標準になるという偉業をなしとげるんです。かっこ良くないですか?

高野さんの残した伝説は、ノンフェクション作家である佐藤正明さんの著書「陽はまた昇る 映像メディアの世紀」(日経BP社)に書き記されています。

また、高野さんとVHSを開発した彼の部下達が元々は「会社のお荷物」と言われリストラ寸前の部署に勤めるサラリーマンだったんです。

そんな状況からの逆転満塁ホームランだったことから、その物語はNHKプロジェクトX『窓際族が世界規格を作った~VHS・執念の逆転劇』として放送され話題を呼びました。

そして、2002年に西田敏夫・主演『陽はまた昇る』(東映)として映画化され、Amazonプライムで映画を観たかっつんによりこうしてブログに書かれています。

この映画を観たら涙で前が見えない・・・状態になりました。

どうしてこんなに感動したんでしょうか?

中小企業VS大企業の構図

みんな大好物じゃないですか?強者に立ち向かう弱者って。思わず応援したくならないですか?

まさにこの構図が当てはまるんですよねー。

当時の日本ビクターは業界8位の中堅どころでした。そんなビクターの本社試作工場で16ミリ映写機などの開発に取り組む純粋な技術屋だった高野さん。

技術屋一筋の彼が、管理職である「事業部長」を命じられます。

うぇーーーい!昇進や!! (*^^*)

管理職になったのだから普通はそう思うところですが、実は・・・そこは横浜工場の片隅にあるまさに窓際部署。事業部長になった者は1年でクビが飛ぶと言われる左遷部署だったんです。

やばいやん・・・高野さん (;´Д`)

当時のVTR事業とは、本社が設計した業務用ビデオを組み立て、企業やホテルなどに売り歩くという部署でした。

その頃のビデオデッキは、やっとカセット型にはなっていましたが、めちゃくちゃ大型だったようです。

さらに、値段も今で言うと120万円以上もしました。それなのに、非常に故障が多く、2台に1台は返品されてくるというそんな商品だったようです。

うーん・・・イラね。って思いますよね。

そんな有様だったので、部署の社員220人の給料さえまかなえず、本社への借金がなんと10億円もあったそうです。

そんな状態なのに、ビクターがVTRから完全に撤退しなかったのは、将来やってくる家庭用VTRの時代に一縷の望みを託していたからでしょう。

もしも、ビデオデッキが小型軽量化され、日本はもちろん世界でも各家庭に普及すれば5000億円規模の大きな市場になると予想されていたわけです。

しかし、そのVTR開発のトップを走っていたのが、盛田 昭夫率いる「世界のソニー」でした。

当時のソニーは大卒技術者の人気ナンバーワン。開発チームには、それこそ100人を超す超エリートが揃っていたんです。

プロジェクトXの中で、1位がソニー。2位と3位がなくて4位に・・・。と話していたことから、背中も見えへんくらい完全独走状態だったようです。

開発は4人でスタート

困ったことに、その頃ビクターは経営危機を迎えていました。そして、経営危機の際に経営陣が決断したのは、大幅な人員整理!! リストラです。いつの世も一緒ですね・・・。

本社にあった家庭用VTR開発部門は閉鎖が決められ、今後は新製品の開発はせず、既存の業務用VTRの改良と販売のみを行うと決定します。

そのため、本社で余剰となった50人の技術者がこの不採算部門へと移されてきました。開発部門から製造部門へ廻された技術者は落胆します。

新しい物を作り出す仕事がしたかったのに、メンテナンスだけになったら、やりがいがなくなりますよね・・・。

しかし、ただでさえ台所事情が苦しいのに、高野さんは「願ってもない宝物をもらった」と喜んだんですって。

なぜなら、ビクターには「高柳 健次郎」という伝説的な技術者がいて、移ってきた50人はその弟子たちだったんですよ。

ここで高野さんは驚きの行動に出ちゃいます。

なんと、「本社に極秘」で家庭用VTR開発を3人の若き技術者に指示するんです。

サラリーマンが、本社に秘密で開発って・・・正気じゃないですね。よい子はマネしちゃダメって言いたくなります。

こうして、高野さんと技術者3人の4人による開発プロジェクトがスタートしていきます。

リストラしない!

開発に取り組んでる高野さんのところへ、本社から通知が届くんですね。

「開発に集中させたげてーー」と視聴者としては思ってしまうんですが、世の中は甘くありません。

通知の内容は「2600人のリストラ」を会社がするから、技術者を3割減らせという通知でした。

事業部長になって3年。1年でクビが飛ぶ部署で頑張ってはいますが、業務用VTRの在庫は山積みされ、毎月5000万円の赤字を垂れ流すうちに本社への借金は30億円を超えています。

これは、本社の言うこと聞かんとあかんやろな・・・。普通はそうですよね?赤字なんですから。

でも、高野さんは違いました。部下のリストラをする代わりに「システム開発部」という新しい部署を立ち上げちゃうんです。

ちょっと、何してんの!?経営側から見ればこう思いますが、部下からすれば自分たちを守ってくれる頼もしい上司ですよね(*^^*) 素晴らしい!

でも、こんな勝手を認めてくれるなんて良い時代やってんな。もしくは、高野さんが交渉上手なんか・・・。

開発が出来なくなったのに、「システム開発」って一体何すんの?

そう思ったあなた、頭がキレてますね。

そうなんです。開発と付いていますが、新部署の実態は営業だったんです。

開発にあぶれた技術者達に、「自分の給料は自分で稼いでくれ」という苦肉の策でしたが、これが思わぬ効果を生み出します。

技術者が直接、お客さんのところへ営業に行ったことで消費者がどんなVTRを求めているのかを肌で感じるようになったそうです。

今までは、業務用VTRと言えば企業やラブホテルに営業するのが普通でした。

しかし、営業の素人である技術者集団は、頭やツテを使い芸能人やタレント、日本舞踊の先生やスイミングスクールといった新しい市場を開拓していきます。

スゲーーーーー(゚o゚;

こうして、ユーザーと直接ふれあう中で、大きなニーズを掴んでいきます。

それは・・・、従来の「録画時間が短い」ということでした。映画やスポーツ番組を録画するには最低でも2時間は欲しい。

従来の1時間しか録画出来ないVTRに対し、せめて2時間録画出来るようにして欲しい。これが消費者の隠れたニーズだったんです。

ソニーがベータマックス発表

1974年12月、ソニーがついに家庭用VTRベータマックスを発表し、よく75年の5月に発売スタートします。

たった、4人で開発をスタートした高野さんたちがVHSの試作機を完成させたのは、75年の8月。すでに、ソニーが発売して3ヵ月が経っていました。

そして、このVHSはベータより約5キロ、重量が軽かったんです。この軽量化は、技術者営業部隊がユーザーから聞き出したニーズでもありました。絶対、軽い方がいい!!

やった!完成した!!ここ一緒に喜ぶところです(笑)

しかし!

「すでにソニーから、ベータが発売されている。規格が違う物を作って売れなかったらどうする」

と経営層に反対されちゃうんですよね。さすがの高野さんも勝手に商品化は出来ません。悩んだ末に、行っちゃいます。向かうは大阪。

大阪に一体何があるのか?勘のいい方はお分かりですね。

当時のビクターは松下電器(現 パナソニック)の子会社だったんです。向かった先は松下電器の本社工場。そこで、松下幸之助さんに「VHSを見てくれ」と直談判するんです。

その熱意に打たれた幸之助さんは、横浜工場に足を運びVHSを自分の目で確かめ、こう言ったそうです。

「ソニーさんのベータは素晴らしい、100点満点や。でもな、このVHSは150点や」

試作機を無料提供

こうして、4年の歳月と部下達の努力の結晶である試作機が認められました。

早速、量産して販売や。とはならないのが、高野さんなんですね。

なんと、この試作機を他社に無条件で貸し出します。もちろん、社内や部下からも不満がでます。

「今まで努力した技術を他社に提供するのか・・・」と。

しかし、高野さんには信念がありました。

「大切なのはVHSという規格を世界に広めること」

高野さんは訴えました。「ビクター1社で世界規格を作ることは出来ない。目先の利益は捨てるべきだ。想像して欲しい。俺たちみんなで作ったVHSが、世界中の家庭で使われているところを」

そして、社内の説得に成功した後、日立、三菱、シャープという大手メーカに提供を始めます。

1976年9月についにビクターからVHS第1号機が発売されますが、その後も各メーカーが独自の技術を投入し次々改良がなされていきます。

アメリカやヨーロッパでも同じように情報を公開し続けた結果、1983年ついにベータを逆転し、世界規格へと上り詰めるんです。

まさに「与える物は与えられる」のサクセスストーリー。

後に副社長になった高野さんが、こんな事を言っています。

「会社の中には序列やルールがあるから、権力や腕力を使えば社員は上の人の指示に従うのは当たり前だ。しかし、権力やルールで社員に指示しても、本当に人が動いてくれるわけではない。

権力によってではなく、感動によって人を動かすのが真の経営者ではないか」

1人の情熱が、部署を会社を世界を動かしたんです。

人は心が動くと行動する。こんなリーダーに僕もなりたいと思います。

夢を諦めない姿勢。部下を自分を信じる姿勢に心を打たれちゃいました。

今回も最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 


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